『ナナメの夕暮れ』を読んだおかげで、もう絶望せずに済みそうです。

ナナメの夕暮れ

※この記事はプロモーションを含みます

数ページのところで、一度読むのをやめてしまった。

その理由は、はっきり言語化できる。

「達観してしまった若林なんて見たくない」と感じたから(敬称略)。

最初に湧いた感情は「残念、悲しい気持ち」だった。

人見知りとして名を馳せた(?)若林は、「世の人見知り」の味方だったから。

でも、そんな若林はもういないのだ。

そんなことを感じて、3ヶ月ぐらい本棚の肥やしになっていて、もう読まずに手放そうかと考えていた。

しかし、今日突然「なんとなくエッセイが読みたいな」と思い立ち、もう一回読んでみることに。

正直、読後のいま思うことは「読むのをやめなくてよかった」ということ。

そして、変わってしまった人を悪しとするのは「自分は変われてないという内面の焦りや嫉妬でしかない」ということ。

本書のあとがき(解説)で朝井リョウさんが述べている以下の内容がすべてを示していると思う。

人間に変わらないことで愛され続ける部分と変わることで愛され始める部分があるとするならば、この本は、後者の存在を強く示してくれる。それは、どうしたって変わりながらでしか生き続けることのできない私たちにとって、頼もしい光となる

“変わりながらでしか生き続けることのできない私たち”というのは、自分にとっては耳が痛い。

だって、【変わるしかない=心地の良い場所に居続けることはできない】ということだから。

でも、“変わりながらでしか生き続けることのできない私たち”ということを(良い意味で)あきらめられたら、潔く前を向いて生きていけるのかもしれない。

そしてもう一つ、思ってることをまさしく表現していくれているのが以下。

「野心や欲望は衝動だから、自然に湧き上がってくるもの」

僕はフリーで仕事をしていて、少し前までは「自分の好きなことで食っていくぞ!」と息巻いていた。

そして、好きなことを探しにいっていた。

でも、よくよく考えると、探しにいっている時点で「内側から出てくる”好き”」ではない。

さらにいうと、自分から探しにいって”好き”が見つかることはほぼない。

本当の”好き”は探しにいっても見つからない。それは外にあるものではなく、内にあるものだから。

僕は総合格闘技を観るのが好きなんだけど、そういう趣味のことって意識的に探しにいこうと思わなくても、衝動的に調べたり、楽しんだりしてる。

本当の”好き”ってそういうことだと思ってて、それに気づいてしまってからは、なんというか良くも悪くも人生をあきらめてしまった感じがある。

好きなことだけで(嫌なことをせずに)食っていくなんて、絶対にできないと気づいてしまったから。

結局、人生は折り合いをつけて生きていくしかないみたいだ。

でも、それに気づけて良かったんだと思う。

もう、モヤモヤせずに済むし、絶望を味わうこともない。

『ナナメの夕暮れ』。タイトルの意味に気づけたとき、きっとなにかが変わる。

試すってすごい楽しいことなんだ。何かがうまくいく喜びには、それまでうまくいかない苦しみが必要不可欠だ。

挙句の果てには「他人に自分を開かないと成長はないよ」とか言う。こっちは自分なぞ開いたら、未来が閉じてしまうぐらいに内面が腐っている。だから、閉じているというのに。

他人の正解に自分の言動や行動を置きに行くことを続けると、自分の正解が段々わからなくなる。

そして何より野心や欲望は衝動だから、自然に湧き上がってくるものであって、「持て!」と言われて持てるものではない。

 ”絶望に対するセイフティネットとして、趣味は必要である”そう確信している。

こういう気持ちはどこから来るかというと、まず他人に「スターバックスでグランデとか言っちゃって気取ってんじゃねぇよ」と心の内で散々バカにしてきたことが原因なのである。他者に向かって剥いた牙が、ブーメランのように弧を描いて自分に突き刺さっている状態なのである。

他人への否定的な視線は、時間差で必ず自分に返ってきて、人生の楽しみを奪う。

 ”好きなことがある”ということは、それだけで朝起きる理由になる。”好き”という感情は”肯定”だ。

ぼくのようなネイティブ・ネガティブが人生を生き抜くには、没頭できる仕事や趣味は命綱と同等の価値がある。

自分の生き辛さの原因のほとんどが、他人の否定的な視線への恐怖だった。その視線を殺すには、まず自分が”他人への否定的な視線”をやめるしかない。